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Book Review and note

最初期の仏教における無我説は、”所有観念の放棄”という極めて実践的なものであった。『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(編集、龍谷大学文学部教授 青原令知)

 

無我説の展開は「所有観念の放棄」「非我」「無我」の三段階となる。

最初に、「無我説」とは、「四法印」(諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静)ひとつにあたる。無我説が依るものは「縁起説」である。縁起説とは、すなわち、諸法は諸因縁の集合・集積によって成立し、相衣相関の関係にあることをいう。縁起説に依れば、常住不変の実体や自我は認められないゆえ、諸法無我となる。

 

次に、諸法無我における「我(アートマン)」とは、「常一主宰の我(固定的不変的な実体・自性・自体)」をいう。具体的には、①個人的な我(個人の人生や輪廻の核となり支配する、人格主体者)と、➁宇宙的な我(創造主、神、絶対者、支配者)の2つ意味がある。

 

これに基づいて諸法無我を解釈すると、①諸法が「固定的不変的な実体・自性・自体」から成るのではないこと(非我)、諸法には「個人的な我」や「宇宙的な我」が存在しないこと(無我)をいう。ゆえに諸法無我とは「諸法は我に非ず」、「諸法には我が無い」という意味をもつ。

 

上述の非我・無我に加え、最初期の仏教経典には、「所有観念の放棄」が諸処に強調されている。すなわち、「わがもの」「われに属す」という観念を捨てることを表す。その理由は、自己の所有・所属とみなされるものは、常に変滅するから、執着してはならないとする。最初期の無我説は、極めて実践的なものであった。

 

かくして、非我という理論的根拠に基づいて現実世界をみれば、個人的な我や、宇宙的な我も存在しないから、諸法は無我ということになる。これらが自覚されることによって、我執や我所執の無意味さに気づき、それらの執着から離れようとする実践的立場、すなわち、「所有観念の放棄」が出てくるのである。

 

以上、初期仏教に説かれる無我説についてまとめた。当時、仏教は「実我説」に基づいて諸現象を説明する外教を否定した。ゆえに、外教に対して、無我説に基づいて諸現象を説明が必要となった。これは釈尊滅後にも引き継がれ、仏教諸派は無我説の立場からの説明に腐心した。その一例が種子説、阿頼耶識説などであり、『倶舎論』「破我品」の所説もそのひとつである。

 

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・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第4章 無我を論証する」(武田宏道)pp.289-299 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)