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Book Review and note

無我説を論証する。『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(編集、龍谷大学文学部教授 青原令知)

5世紀頃のインドの大学僧、ヴァスバンドゥが著した『阿毘達磨倶舎論』の「破我品」は、仏教の無我説に基づいて、外教の実我説などを論破し、有情の諸現象を説明する。ヴァスバンドゥはのちに唯識思想の論書を著すが、その前段階の思想を知ることができる。 

実我非存在を論証する。

実我非存在は、現量(直接知覚)と比量(推理的知覚)の両面から、実我の了得されないことによって論証される。すなわち、存在する法は、現量により了得され、もしくは、比量によって了得される。しかし、実我はその両面によって了得されない。また、現量と比量によって了得されるもの(六境、意根、法境)のなかに、実我は含まれない。ゆえに実我は非存在である。 

無我を論証する。

仏教では、諸現象は多くの因縁の集合によって生起し、そして、その諸因縁は無常であり一刹那しか存在しない刹那的存在とする。具体的には次の2点となる。すなわち、

①一刹那における諸現象(因果が同時に存在する同時因果)は、多くの因縁の集合によって成立しているゆえ、その主体の特定はできない。

➁三世にわたる諸現象の同一性(因が前、果が後の異時因果)は、ある法が因となり次刹那に果を生じるという、途切れることのない因果の連鎖のうえに保たれる。因果の連鎖を繰り返しなら相続していくゆえ、その相続の前後は関連したものとなり、過去と現在、現在と未来とが繋がり、それらの同一性が保たれる。

 

ヴァスバンドゥは、このことを踏まえて、以下の具体的な事柄を解明する。

 

■認識の主体

認識はまず対象を取り込み、ついで、過去の経験をもとにその対象を判断して認識する。ゆえに認識は多刹那にわたって完結する。一連の認識が成立するのは、前刹那の心心所が次刹那の心心所を生起させることを通して、前刹那の心心所の内容が次刹那の心心所に受け継がれることを繰り返すことによって、多刹那にわたる諸々の心心所が関連をもつ。

■行為の主体

業は思業・身業・語業の三業に大別される。身業・語業の主体は思業による。この思業も多くの心所のはたらきの集大成であり、これを生起させる因も無数にある。よって、行為の主体としての実我は特定できない。 

■自己の同一性を保つもの

自己の同一性は、前の因が直後の果を生じることによって、前因の有する内容が直後の果に伝えられることを繰り返すという因果の連鎖によって保たれる。 

■輪廻の主体

五蘊の有情は愛に執取するので、五蘊が滅する(死)とき、その執取が異熟果を生じる業の縁となり、次生に別な五蘊を生じる。次から次へと異熟果としての異なる五蘊が生じ、有情は途絶えることなく輪廻する。

したがって、前生の因が後生の果を生じていくときに、因のもつ内容が果に伝えられていくことを繰り返しながら、輪廻していく。この過程において、それらの前後を貫いて存続するような主体は存在しない。 

■業の果を受けるもの

人は業の果を識によって了得し、苦あるいは楽として感受する。同時に、行為者当人が苦あるいは楽を業の果として感受する。これら一連のはたらきは人の身心のうえに生じ、その身心が果を受ける。つまり業の果を受けるのは五蘊の集合体としての身心である。 

■業の果を生じる生果の功能

ある業を為した当人のうえにその業の果を生じる功能が持続・存続されていき、のちのその効能が縁にあえば果を生じるという、勝れた状態すなわち特殊な転変になるとき、それが果を生じる。

 

以上、これらの所説はのちに種子説として説かれ、唯識思想への橋渡し的なものになっていく。

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・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第4章 無我を論証する」(武田宏道)pp.300-322 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)