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Book Review and note

アビダルマとは、汚れなき智慧そのものである。『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(編集、龍谷大学文学部教授 青原令知)

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ヴァスバンドゥは「アビダルマ」という語に、3つの解釈を与えた

まず、アビダルマの本来的な意味とは、「煩悩なき(無漏)五蘊」を指す。なかでも重要なのは、諸法(ダルマ)を無漏法・有漏法と分析する「分別判断(智慧)」である。ヴァスバンドゥは「諸法を正しく弁別すること以外に、煩悩を鎮める方法はない」とし、これにより涅槃が成就されることとなる。ゆえに、アビダルマの第一義的意味は、諸法を正しく分析することにより諸々の煩悩を滅す、「汚れなき智慧」をいう。

つぎに、アビダルマの二次的な意味とは、「汚れなき智慧」を生み出す、2つの智慧を指す。具体的には、「人に備わる分別判断の智慧」と「三慧から生じる智慧」をいう。同じ意味で、アビダルマを説く論書も指す(論書の学びから、涅槃へと導く智慧が生まれる)。ゆえに、アビダルマの第二義的意味は、「先天的・後天的な智慧」と「アビダルマの諸論書」をいい、いずれも諸法(ダルマ)の分析に資するものとなる。

さらに、アビダルマの語源的な解釈は、「涅槃に直面するもの」と「諸法(ダルマ)の特徴(相)に直面するもの」とに分けられる。前者は、煩悩が滅した状態であるから、前述の「汚れなき智慧」が意図される。後者は、諸法が持つ独自の特徴(自相)と、諸法に共通する無常性や無我性といった特徴(共相)であるから、前述の「先天的・後天的な智慧」と「アビダルマの諸論書」が意図される。

以上のことから、アビダルマとは、アビダルマ論書だけを指すのではなく、それを学ぶことで得られる智慧、それを思索し瞑想することで得られる智慧、さらにその先にある煩悩が滅した汚れなき智慧を含むものである。

 

アビダルマにおけるダルマ理解

初期仏教経典における「ダルマ」

ダルマとは、仏陀の教説にある「四諦、八正道、十二支縁起、五蘊、十二処、十八界」などの諸項目(法数→論母)、ならびに、その因果関係にある「因果律」という、普遍的な法則(法性、ダンマター)をいう。ダルマの理解において重要なのは、諸法が「縁起」という法性によって貫かれているという主張にある。

つまり、仏陀の教えの核心は、すべてのこの世の出来事は、「因果律」によって貫徹されていることに尽きる。

 

アビダルマ文献における「ダルマ」

ダルマとは、アビダルマの「汚れなき智慧」の対象となる、「迷いの世界から悟りの世界までの一切の究極的な構成要素」をいう。

アビダルマの目的は、仏陀の諸法を分類整理し、その間の関係を明らかにすることにある。有部は諸法の分類整理のために、法に「固有の性質(自性)」という概念を導入した。自性を共有する諸法を同一の法とみなし、同じカテゴリーに分類した。

諸法は、色・心・心所・心不相応行・無為の5つのカテゴリー(五位)に分類し、「七十五法」とされた。この結果、因果関係を始めとする諸法の関係を明らかにし、「法の体系」を構築され、仏陀の教えの究極的な構成要素となった。

 

有部のダルマ理解

「法の体系」の構築は、仏陀の教えの究極的な構成要素となったが、「存在の究極的な構成要素」という意味にはならない。

有部の法理解は、過去・現在・未来の諸法が実在する(三世実有)という時間論・存在論に関わり、諸法は三世にわたって変わらない「固有の本質(自性)」を保持すると考える。本質を保持する法のみが実有で、その他の存在は単なる観念(仮名、施設)とする。

ただし、この「固有の本質(自性)を保持するもの」の観念は、「一切法は無自性であり、空である」と主張した中観派の龍樹に否定される。

よって、ヴァスバンドゥは、「自性」ではなく「固有の特徴(自相)を保持するもの」がダルマであると定義している。 

 

アビダルマ的存在論

仏陀の教説は、誰にでも理解できる常識的な事実(世俗諦)と、出家修行者にとっての究極的な真実(勝義諦)という、2つの真実(二諦)がある。この二諦という経典解釈論は、のちの中観派唯識派にも引き継がれた。

 アビダルマにおいて、究極的に存在するもの(勝義有、実有)とは、「五位七十五法」として整理される諸法をいう。これら諸法は一切の存在の究極的な構成要素であり、その固有の本質(自性)を捨てること無く常に存在する実在である。

一方、諸法によって構成される存在は、実在ではなく、我々の観念の上にだけ存在する概念的存在(仮有、施設有)であり、世間の通念としてだけ存在する常識的存在(世俗有)である。

以上のことから、固有の本質(自性)を備えたダルマが実在する(法有)というのが、アビダルマ的存在論となる。

 

 ・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第1章 法を分析する」(桂紹隆)pp.3-20 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

 

 

無我説を論証する。『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(編集、龍谷大学文学部教授 青原令知)

5世紀頃のインドの大学僧、ヴァスバンドゥが著した『阿毘達磨倶舎論』の「破我品」は、仏教の無我説に基づいて、外教の実我説などを論破し、有情の諸現象を説明する。ヴァスバンドゥはのちに唯識思想の論書を著すが、その前段階の思想を知ることができる。 

実我非存在を論証する。

実我非存在は、現量(直接知覚)と比量(推理的知覚)の両面から、実我の了得されないことによって論証される。すなわち、存在する法は、現量により了得され、もしくは、比量によって了得される。しかし、実我はその両面によって了得されない。また、現量と比量によって了得されるもの(六境、意根、法境)のなかに、実我は含まれない。ゆえに実我は非存在である。 

無我を論証する。

仏教では、諸現象は多くの因縁の集合によって生起し、そして、その諸因縁は無常であり一刹那しか存在しない刹那的存在とする。具体的には次の2点となる。すなわち、

①一刹那における諸現象(因果が同時に存在する同時因果)は、多くの因縁の集合によって成立しているゆえ、その主体の特定はできない。

➁三世にわたる諸現象の同一性(因が前、果が後の異時因果)は、ある法が因となり次刹那に果を生じるという、途切れることのない因果の連鎖のうえに保たれる。因果の連鎖を繰り返しなら相続していくゆえ、その相続の前後は関連したものとなり、過去と現在、現在と未来とが繋がり、それらの同一性が保たれる。

 

ヴァスバンドゥは、このことを踏まえて、以下の具体的な事柄を解明する。

 

■認識の主体

認識はまず対象を取り込み、ついで、過去の経験をもとにその対象を判断して認識する。ゆえに認識は多刹那にわたって完結する。一連の認識が成立するのは、前刹那の心心所が次刹那の心心所を生起させることを通して、前刹那の心心所の内容が次刹那の心心所に受け継がれることを繰り返すことによって、多刹那にわたる諸々の心心所が関連をもつ。

■行為の主体

業は思業・身業・語業の三業に大別される。身業・語業の主体は思業による。この思業も多くの心所のはたらきの集大成であり、これを生起させる因も無数にある。よって、行為の主体としての実我は特定できない。 

■自己の同一性を保つもの

自己の同一性は、前の因が直後の果を生じることによって、前因の有する内容が直後の果に伝えられることを繰り返すという因果の連鎖によって保たれる。 

■輪廻の主体

五蘊の有情は愛に執取するので、五蘊が滅する(死)とき、その執取が異熟果を生じる業の縁となり、次生に別な五蘊を生じる。次から次へと異熟果としての異なる五蘊が生じ、有情は途絶えることなく輪廻する。

したがって、前生の因が後生の果を生じていくときに、因のもつ内容が果に伝えられていくことを繰り返しながら、輪廻していく。この過程において、それらの前後を貫いて存続するような主体は存在しない。 

■業の果を受けるもの

人は業の果を識によって了得し、苦あるいは楽として感受する。同時に、行為者当人が苦あるいは楽を業の果として感受する。これら一連のはたらきは人の身心のうえに生じ、その身心が果を受ける。つまり業の果を受けるのは五蘊の集合体としての身心である。 

■業の果を生じる生果の功能

ある業を為した当人のうえにその業の果を生じる功能が持続・存続されていき、のちのその効能が縁にあえば果を生じるという、勝れた状態すなわち特殊な転変になるとき、それが果を生じる。

 

以上、これらの所説はのちに種子説として説かれ、唯識思想への橋渡し的なものになっていく。

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・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第4章 無我を論証する」(武田宏道)pp.300-322 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

 

 

最初期の仏教における無我説は、”所有観念の放棄”という極めて実践的なものであった。『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(編集、龍谷大学文学部教授 青原令知)

 

無我説の展開は「所有観念の放棄」「非我」「無我」の三段階となる。

最初に、「無我説」とは、「四法印」(諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静)ひとつにあたる。無我説が依るものは「縁起説」である。縁起説とは、すなわち、諸法は諸因縁の集合・集積によって成立し、相衣相関の関係にあることをいう。縁起説に依れば、常住不変の実体や自我は認められないゆえ、諸法無我となる。

 

次に、諸法無我における「我(アートマン)」とは、「常一主宰の我(固定的不変的な実体・自性・自体)」をいう。具体的には、①個人的な我(個人の人生や輪廻の核となり支配する、人格主体者)と、➁宇宙的な我(創造主、神、絶対者、支配者)の2つ意味がある。

 

これに基づいて諸法無我を解釈すると、①諸法が「固定的不変的な実体・自性・自体」から成るのではないこと(非我)、諸法には「個人的な我」や「宇宙的な我」が存在しないこと(無我)をいう。ゆえに諸法無我とは「諸法は我に非ず」、「諸法には我が無い」という意味をもつ。

 

上述の非我・無我に加え、最初期の仏教経典には、「所有観念の放棄」が諸処に強調されている。すなわち、「わがもの」「われに属す」という観念を捨てることを表す。その理由は、自己の所有・所属とみなされるものは、常に変滅するから、執着してはならないとする。最初期の無我説は、極めて実践的なものであった。

 

かくして、非我という理論的根拠に基づいて現実世界をみれば、個人的な我や、宇宙的な我も存在しないから、諸法は無我ということになる。これらが自覚されることによって、我執や我所執の無意味さに気づき、それらの執着から離れようとする実践的立場、すなわち、「所有観念の放棄」が出てくるのである。

 

以上、初期仏教に説かれる無我説についてまとめた。当時、仏教は「実我説」に基づいて諸現象を説明する外教を否定した。ゆえに、外教に対して、無我説に基づいて諸現象を説明が必要となった。これは釈尊滅後にも引き継がれ、仏教諸派は無我説の立場からの説明に腐心した。その一例が種子説、阿頼耶識説などであり、『倶舎論』「破我品」の所説もそのひとつである。

 

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・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第4章 無我を論証する」(武田宏道)pp.289-299 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

 

 

インド仏教が目指した修行道の到達目標はどこにあるのか?『倶舎 ~絶ゆることなき法の流れ~ 』(龍谷大学)

 

5世紀頃のインドの大学僧、ヴァスバンドゥが著した『阿毘達磨倶舎論』(倶舎論)には、修行道すなわち仏教実践がまとめられている。この修行道の内容は、現代人の日常からかけ離れた、かなり高度なレベルであるから、実際に到達するには難しい点も含まれる。しかし、実践するかしないかは別として、インド仏教が目指した修行道の到達目標がどこにあるのかを知ることができる。

”無学の阿羅漢”が、長い修行道の一つの到達点。

修行道は『倶舎論』の第六章「賢聖品」にまとめられ、修行道のそれぞれの段階で到達する成果や功徳が明らかにされる。この修行道の中核にあるものは「四聖諦」である。まずは凡夫において四諦現観に備え、つぎの聖者において四諦現観を行い、長い修行道をひとつひとつ果たしてゆく。『阿毘達磨倶舎論』全体の構造が四聖諦をもとにしているのも、それが仏教実践の基本ゆえである。 

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①修行道の出発点 

 【修行道の到達目標】

・三慧の獲得

・身心の清浄

 修行道の出発点として、まずは「戒」による規律ある生活により、「三慧」を獲得する。三慧とは、教えを聞くことで獲得する聞慧、それを正しく考えることで獲得する思慧、考えたことを実際に修めることで獲得する修慧をいう。三慧は修行道全体に貫かれる智慧である。つぎに「三浄因」による身心の清浄を行う。三浄因とは、自らを悪から遠ざける身心遠離、いまあるものに満足して必要以上に求めない喜足少欲、煩悩を断じ道を修めようと心がける四聖種をいう。

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➁凡夫の修行道(世間道)

 【修行道の到達目標】

・心を整える

・真実を観察する

・苦を理解する

 まず「五停心観」により、煩悩を抑制して心を整える。三毒・我見を対治し、数息観を行う。つづいて「四念住」により、真実を観察する。真実とは、身体は不浄なもの、この世はすべて苦なるもの、心は無常なるもの、法は無我なるものをいう。つぎに「四善根」により、四聖諦を観察し、「苦」の理解を深める過程を経て、世俗の最高位を目指す。四聖諦とは、この世は苦とする苦諦、苦には原因があるとする集諦、その苦を滅ぼす滅諦、その苦を滅ぼす道とする道諦をいう。

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③聖者の修行道(出世間道)

 【修行道の到達目標】

・煩悩を断じる

・解脱を獲得する

・無学の阿羅漢となる

 聖者の位に至ると、四聖諦を観察する「無漏の智慧」により、あらゆる煩悩を断じ、直後に生じる智慧によって解脱を獲得する。まず「見道」では、四聖諦を観察する智慧が働き、道理に迷う煩悩「見惑」を断じる。つぎの「修道」では、感情面で迷う煩悩「修惑」を断じる。修行道の最後は、「金剛喩定」により、すべての煩悩が断じ尽くされたことを確認する智慧、「尽智」が生じる。これ以降を「無学道」といい、もはや学ぶ必要がないという、悟りきった状態をいい、「阿羅漢」と呼ばれる。阿羅漢には、利他を行うのにふさわしい人、供養(尊敬)に値する人の意味がある。無学の阿羅漢は、人を自在に導くすべを得ているものとなる。

この「無学の阿羅漢」が、長い修行道の一つの到達点となる。なすべきことをやりおえて、すべての業は尽き果て、もはや二度と輪廻において再生しない「般涅槃」、完全な悟りが得られる。

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・引用図書

『倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)』「第3章 悟りへの道を探る 1.修行道と智慧」(田中教照)pp.225-261

 

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

倶舎―絶ゆることなき法の流れ (龍谷大学仏教学叢書 4)

 

 

チベット仏教の「ゲルク派」。ダライ・ラマ法王も属するこの最大宗派は、14世紀後半になって現れたツォンカパという宗教的天才が立宗した。

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ゲルク派は、ツォンカパの独創的な哲学。

ツォンカパの出現

ツォンカパ(1357-1419)はアムド地方で生まれ、16歳で中央チベットに向かい、密教、般若、中観、唯識、論理学などを学んだ。カダム派サキャ派の寺を訪れてはディベートを行い、無敵の強さでその名を轟かせたという。ある時、ツォンカパは文殊菩薩の姿を見、声を聴くことができるウマパという一僧と出会う。ツォンカパはウマパの見る文殊菩薩の導きをうけて、思索を深めていった。そしてツォンカパは、38歳頃、一人の人が仏陀の覚りを得るために辿る修行の道の中に、仏教のさまざまな教えをひとつも排することなく位置付ける一つの体系を作り上げた。

ツォンカパによるゲルク派の台頭

伝記によると、ツォンカパの出現前は、総体的に仏教を学び実践するものはおらず、また、戒律も護られていなかったという。これに対してツォンカパは、顕教密教の教学と、戒律を護るカリキュラムを提唱した。ツォンカパの体系が論理的かつ包括的であったこと、また、その追随者が教学とカリキュラムに則り学究に励んだことから、ツォンカパの集団は次第に他派を圧倒した。チベット各地にゲルク派の僧院が広がっていき、ラサ近郊のドク山にガンデン大僧院を建立した。ここから「ガルク(ガンデンの教え)」となり、「ゲルク」と呼ばれるようになった。

 

一人の宗教的天才が智慧の杖で地面を突き、その波動は四方に広がっただけでなく、時間を超えて我々の所までも伝わった。

ゲルク派の体系は、顕教の全体像として、①ラムリム(覚りへの道の階梯)、②中観帰謬論証派の空性がある。つぎに顕教を前提として、③密教の実践の階梯(生起次第、苦境次第)がある。

 

①ラムリム(覚りへの道の階梯)

ラムリムとは、一人の人が仏陀の覚りを得るために辿る修行の道を、段階を追って説明したものをいう。このラムリムはインド高僧アティシャの修行体系であり、その弟子から始まるカダム派中心の教えであった。ツォンカパはこのラムリムを受け継いだ。

ツォンカパは、ラムリムの修行体系を踏襲しつつ、大乗仏教の精神「菩提心」を全ての根本とした体系に発展させた。さらに、大乗仏教の修行階梯「六波羅蜜」にある分析的瞑想の箇所では、中観帰謬論証派の立場を論証し、それを密教も含めて全仏教を支える根本的な空理解とした。

ラムリムの利点

ツォンカパはラムリムの修行体系が優れている理由を4つあげる。すなわち、(1)仏教の教え全てが矛盾なく理解できる、(2)仏の説いた経典の言葉全てが実践に即した教えとして身につく、(3)仏の言葉の真意が容易に理解できる、(4)仏説の全てを正しい順序で学べ、取捨選択をすることがない。

覚りへの道の階梯

覚りへの道は大きく4つに分かれる。すなわち、(1)「前提」師を求め、有暇具足を自覚する、(2)「小士(在家者)」仏法を信頼し帰依する。輪廻からの解脱を願う、(3)「中士(出家者)」解脱のための出家。苦諦と集諦からの解脱を願う、(4)「大士(大乗仏教者)」一切衆生を苦しみから救済をする菩提心を起こす。そのために、7つの因果の秘訣、自他交換の瞑想、菩薩行、智慧波羅蜜密教を行う。

 

②中観帰謬論証派の空性

ツォンカパにとって一切衆生の救済が仏教の最も重要な目標である。それを支えるものが、縁起する存在を重視する空理解であった。大乗仏教の立場は中観思想であり、根本的な主張は「一切法は空」となる。中観思想の真意とは、仏教の教義「縁起」と空性とは全ての存在の本質であり、結びついて成立することある。中観帰謬論証派はこれを正しく解釈したものであると主張する。

 中観思想

物事は縁起により存在し「同時に」空である。ゆえに、実体性(自性)をもっていない。「同時に」はすべての存在に成り立っている。ゆえに、縁起と空性は結びついて、存在の本質となる

ツォンカパの主張する中観帰謬論証派の空性

ツォンカパはウマパの見る文殊菩薩の導きをうけたが、なかでも一番重要なのが、中観帰謬論証派の空性理解であった。

 

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我々が「存在している」と思っているものは全て、それを把握している意識により概念的に名付けられた存在 である。ゆえに、概念的意識という縁で生起したものである、という意味で「縁起」している。

概念的思考による名付け・意味付けを免れるようなものは何も存在しない。あらゆるものは、それ自体での存在性を持たない。つまり、それ自身のうちに存在根拠を持っていない。

本質的に実体のない空なるものでありながら、「同時に」、縁起している存在を認める。つまり、物事の因果関係が空虚なものでなく、信頼できるものであることを前提とする。

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この前提により、輪廻のなかで修行することが、仏陀となるための原因を蓄積していくこと、および、仏陀となったときにも、その本質は空(法身)でありながら、「同時に」、縁起のなかで一切衆生を救済するもの(色身)という二面性を併せ持つことになる。

密教の実践の階梯(生起次第、苦境次第)

ツォンカパは『覚りへの道の階梯大論(ラムリム)』の大部分を顕教の体系とし、別途、『秘密真言の道の階梯(ガクリム)』に4種類のタントラを詳説する。密教経典のなかでは、中観思想のナーガールジュナ作『秘密集会タントラ』を重視した。

ツォンカパは密教の道の実践の階梯は、『秘密集会タントラ』の解釈「聖者流」に基づいた、生起次第と苦境次第の2つのステップからなる。

 生起次第

最初の階梯では、金剛阿闍梨による「灌頂」の儀式を行う。修行者は仏や仏の世界を観想(曼荼羅真言)し、自身と仏との一体化することにより、智慧の資糧を積む。こうして目指すべき境地を明確に意識し理解することで、次の苦境次第の準備をする。

 苦境次第

生起次第の観想から、実際に好みを変化させて仏の身体を獲得することを目指す。その行法を理解するために2つの前提が必要となる。ひとつは、無上瑜伽タントラの考える人間の身体の構造の理解。もうひとつは、死と再生のプロセスの理解である。

 

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・引用図書

『新アジア仏教史09チベット「須弥山の仏教世界」』(編集委員 沖本克己、編集協力 福田洋一、佼成出版社、2010)、pp.59-61, pp.201-217

『図解 チベット密教』(田中公明、春秋社、2012)、pp.87-96  

須弥山の仏教世界 (新アジア仏教史09チベット)

須弥山の仏教世界 (新アジア仏教史09チベット)

 
図説 チベット密教

図説 チベット密教